【日々のみことば】2月20日

大きな淵[ルカ16:14-31]

 アブラハムは彼に言った。
 「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、
 たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、
  彼らは聞き入れはしない。」
           ルカの福音書16:31

19節以降の金持ちとラザロのたとえは、
とてもショッキングな内容です。
死後、この二人の立場は逆転しています。
この世において金持ちは良いものを受け、
ラザロには何一つあわれみを示しませんでした。

逆にラザロは常に貧しくされ、この世で
良いものをほとんど受けなかったのです。
そんな貧しくされたラザロは死後
アブラハムの懐で憩います。

一方、お金持ちは炎の中で苦しむのです。
彼は助けを求めますが、大きな淵があって
助けることができないと断られます。
そうすると家族のことを思い、
自分の家族にあわれみを示し、
ラザロを遣わして欲しいと願うのです。

これもアブラハムは断ります。
それはみことばを聞いても悔い改めない者たちが、
死者が復活したと知っても
悔い改めるはずがないからです。

実際、イエス様が復活されても、
多くの人はイエス様を信じ、
悔い改めませんでした。
ますます頑なにされたのです。

私たちも本来なら、死後、
天の御国をはるか遠くに見て、
ハデスで苦しむしかなかったのです。
でも父なる神様は愛がなかった私たちを
あわれんでくださいました。

このあわれみこそイエス様の十字架です。
父なる神様はイエス様を通して
私たちにご自身の愛を余すところなく
示してくださいました。

そして決して越えることができなかった
父なる神様と私たちとの間にあった大きな淵を、
イエス様によって越えることができたのです。
このあわれみゆえに私たちは死後、
父なる神様のもとで憩い、
永遠の喜びへと迎え入れられるのです。

父よ、イエス様の十字架のゆえに救われたことを感謝します。

【日々のみことば】2月19日

永遠の住まい[ルカ16:1-13]

 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、
  自分のために友をつくりなさい。
 そうすれば、富がなくなったとき、
  彼らがあなたがたを永遠の住まいに
 迎えてくださいます。
           ルカの福音書16:9

15章後半に出てきた弟息子と同じように、
管理人は財産を使ってしまうのです。
それを知った主人は彼を解雇することを
告げます。

すると管理人は自分が生き残る方法を
一生懸命考えて、債務者たちを呼ぶのです。
そして主人のためには証文を作り、
債務者たちには借金を値引いてあげます。

この一連の出来事、決してほめられたものではありません。
でも主人は彼の賢さをほめるのです。
私たちも管理人のように父なる神様から
この世で多くのものを任されています。

それらを「永遠の住まいに迎えられるために」
用いることが求められているのです。
富を愛するのではなく、父なる神を愛し仕え、
友となってくださったイエス様と歩むことを。

父よ、永遠の住まいに迎えられる備えを
  いつでもしていくことができますように。

【日々のみことば】2月18日

放蕩する父親[ルカ15:11-32]

 ところが、まだ家までは遠かったのに、
  父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、
 駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
           ルカの福音書15:20

今日のイエス様のたとえは一般的に
「放蕩息子のたとえ」と言われます。
弟息子が父親から財産の分け前をもらい、
それを放蕩の限りを尽くし、
すべて使い果たしてしまうのです。

しかし実際に放蕩したのは父親の方でした。
彼は恩知らずの息子に財産を分与し、
その上、財産を使い尽くした息子を
惜しみなく愛するのです。

普通の父親だったら文句の一つでも
言いたくなるところですが、
彼はボロボロになった息子を見つけて、
かわいそうに思い、走り寄っていきます。

このことから私たちの父なる神様は、
どんなに私たちが背いても、悪に悪を重ねても、
決して見捨てられないことが分かるのです。
そして私たちのことをかわいそうに思ってくださり、
私たちを喜んで迎えてくださいます。

この父なる神様のもとにいつでも
飛び込んで行くことができたら幸いです。

父よ、あなたが私たちに放蕩の限りを尽くして、
  愛して赦してくださっていることを感謝します。

【日々のみことば】2月17日

捜しておられる主[ルカ15:1-10]

 ・・・一人の罪人が悔い改めるなら、
  悔い改める必要のない九十九人の
 正しい人のためよりも、
  大きな喜びが天にあるのです。
           ルカの福音書15:7

パリサイ人たちは、イエス様が罪人を受け入れ、
食事をしているのを納得できません。
そんな彼らにイエス様は二つのたとえを
語られるのです。

そのどちらも無くなったもの、
失われたものを見つけるまで捜し、
見つけたら大喜びするということです。

これは罪人であった私たちを
主なる神様が捜してくださり、
見つけ出してくださったことを
意味しているのでしょう。

それにしてもなぜ主なる神様は、
私たちを捜されるのでしょうか。
主なる神様は全知全能の神様。
私たちがどこにいるかなど、
すべてご存じのはずです。

これは主なる神様に背を向ける私たちに
主なる神様が絶えず
「あなたはどこにいるのか」と
叫び続けてくださっているということでしょう。

その声に応答するまで
主なる神様にとって私たちは失われた存在。
だから私たちが主の声に応答し、
父なる神様に心を向けるならば、
父なる神様は喜んで私たちを迎えて、
天において大宴会が開かれます。

今日も父なる神様は叫び続けて、
心の戸をたたき続けてくださるのです。
「あなたはどこにいるのか」と。

父よ、あなたが私たちを見つけてくださり、
  私たちを救ってくださったことを心から感謝します。

【日々のみことば】2月16日

イエス様についていく

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
   わたしの弟子になることはできません。
              ルカの福音書14:27

十字架を負ってイエス様についていくとは、
盲目的に従うことではないようです。
積極的な応答としっかり物事を見分ける目が
必要であると分かるのです。

また地の塩として、塩気をなくさないことの
重要さをイエス様は教えておられます。
この世と調子を合わせず、自分自身を日々、
主によって変えていただく。

こうして主イエス様を第一として、
主の御跡に従っていくなら、
主は私たちを用いてくださり、
私たちを通してご自身の栄光を
現わしてくださるのです。

父よ、イエス様の弟子として、
  イエス様について行く者とさせてください。

【日々のみことば】2月15日

神の国で食事をする人

 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、
    私の食事を味わう者は一人もいません。
              ルカの福音書14:24

盛大な宴会に招かれていても、
色々な理由をつけて、
招きを拒絶する人たちが出てきます。
どうして彼らは断ったのでしょうか。

私だったら、喜んでいくと思います。
恐らく盛大な宴会よりも、
自分たちのことに関心があり、
満たされていたから。

わざわざきれいな格好をして、
宴会に行く魅力を感じていないのです。
出席したら、その素晴らしさを
味わい、大きな恵みを受けるにもかかわらず。

また、このたとえで興味深いのは、
無理にでも主人が家をいっぱいに
するように命じているところです。
本来だったら招待されるべきではない
人たちを探し出し、宴会に招いています。

私たちも本当だったら、
主の食卓、神の国に招かれる者では
ありませんでした。
そんな私たちを主はロトの家族を
滅びから無理矢理、いやあわれみによって
救い出されたように、主の食卓、
神の国に招いてくださったのです。

そして神の国での大宴会の前味を
聖餐式を通して、今味わっています。
本来、招かれる者ではなかった者が、
あわれみによって、主の聖餐に
預かっていることを
心から感謝していきましょう。

父よ、私たちを探して救ってくださり、
  主の聖餐に預からせて下ってありがとうございます。

【日々のみことば】2月14日

自分を低くする者

 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、
   自分を低くする者は高くされるからです。
              ルカの福音書14:11

自分を低くする者とは、どんな人でしょうか。
あえて末席を選んで座る人のことでしょうか。
これはどちらかというと偽りの謙遜で、
自分が高められることを期待しているからです。

まことに何の偽りもなく、低くなられたお方は、
イエス様しかおられません。
イエス様は神であることを捨てて、
人として、この地上に下ってこられたからです。

このキリストの低さにならうために
私たちに求められていることは、
自分のことだけでなく、他の人のことも
顧みること。

これも難しく、困難に思えます。
自分のことばかり考えているからです。
だからこそ低くなること、
他の人のことを顧みることを
祈り続けよと主は命じられるのです。

私たちが低くなるためには、
一に祈り、二に祈り、三に祈り。

父よ、私を低くしてください。
 他の人のことを顧みる者とさせてください。