【日々のみことば】1月31日

神の国と神の義[マタイ 6:19-34]

まず神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはすべて、
それに加えて与えられます。
             マタイ 6:33

私たちは色々なことを心配します。
まだ起こってもいないことで
悩むこともあるのです。

でもイエス様は私たちの必要を
父なる神様はすべて
知っていてくださると言われます。

だから私たちがすることは、
神の国と神の義を求めること。
これは神様をいつも第一にして
歩むことでしょう。

このように神様を第一にするなら、
私たちはすべての重荷、煩いを
自分だけで背負い込む
必要がなくなります。

一日一日、主なる神様の助けを
求めて生きることができるのです。
今日も主は私たちとともに
痛み悲しみを担ってくださいます。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたを第一として歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月30日

隠れたところで見ておられる父[マタイ 6:1-18]

そうすれば、隠れたところで
 見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます。
            マタイ 6:4

イエス様の時代、人に見せるために
善行をしたり、祈ったり、
断食する人が多かったようです。

そのことをイエス様は
やめるように命じられます。
そして隠れて、知られずに、
行うように教えられるのです。

私たちも自分を信仰深く
見せたいという欲求があります。
人から認められたいという
思いがあるのです。

このように人を意識するなら、
私たちはどんなに良いことをしても、
祈っても、礼拝をささげても、
何の意味もありません。

私たちが意識しなければならない
お方は、主なる神様だけです。
たとえ誰も認めてくれなかったとしても、
主は私たちのすべてを見てくださっているのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたが私のすべてをご存じで、

私を認めてくださることを感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月28日

まず仲直りを[マタイ 5:21-32]

ささげ物はそこに、
 祭壇の前に置き、行って、
まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。
            マタイ 5:24

イエス様は主を礼拝することが
第一で兄弟姉妹たちとの関係は、
二の次三の次で良いと言われません。

兄弟姉妹たちとの関係が
悪化しているのに、
それを無視して礼拝することを
主は決して喜ばれないのです。

もし自分を誰かが恨んでいることを
思い出したら、主を礼拝する前に
和解するように命じられます。

和解する、仲直りすることが
難しいことがあるでしょう。
自分自身を低くしなくてはならないからです。

しかし主はすべての人と
平和を築くように
私たちを召してくださいました。

だからこそへりくだって、
和解を求めていきましょう。
そこに必ず主が働いてくださるからです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、すべての人と平和を

築くことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月27日

地の塩[マタイ 5:13-20]

あなたがたは地の塩です。・・・
  あなたがたは世の光です。
           マタイ 5:13、14

イエス様は弟子たちのことを
地の塩、世の光であると
語りました。

地の塩とは、どういうことでしょうか。
塩の役割ですが、大きく分けて二つあります。
一つは味をつけること。

無味乾燥な料理に塩を加えることで、
料理が引き立ちます。
同様に私たちもこの世に
味をつける役目があるのです。

コロサイ書4章6節には次のようにあります。
「あなたがたのことばが、いつも親切で、
塩味の効いたものであるようにしなさい」

私たちは親切で優しいことばだけを
話すのではなく、
塩味のきいたことばを話すことも
求められているのです。

塩のもう一つの役割は、
腐敗を防ぐことです。

同じように私たちも、
この世の腐敗が進まないように、
この世に遣わされているのです。

私たちはキリストにあって
義とされました。
もう悪に流されず、
悪から離れることができたのです。

ですからこの悪の世に染まり、
悪を楽しむ人々が悪から
立ち返るように祈り、
いのちの言葉を語り続けていくのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちが地の塩としての

役割を全うしていくことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月26日

幸いとは[マタイ 5:1-12]

心の貧しい者は幸いです。
 天の御国はその人たちのものだからです。
               マタイ 5:3

イエス様が弟子たちに
幸いについて語られました。
この箇所は一般的に
山上の説教と言われています。

心の貧しい者、悲しむ者、、、
イエス様はこの世の幸いとは、
真逆のことが幸いであると
語られるのです。

それは私たちが高慢で、
自我が強ければ、
決して主なる神様によって
満たされることがないからです。

私たちの幸いは、
三位一体の神様が
私たちのすべてとなること。

そのために主は私たちを貧しくされ、
私たちを低く低くされるのです。
このように低くされた私たちをイエス様は
あわれみで包み込んでくださいます。

今日も一日、主にあって
低くされていることを喜び、
主のあわれみで覆っていただきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちを低くして、

私たちをあなたのあわれみで包み込んでください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月25日

人間をとる漁師に[マタイ 4:12-25]

わたしについて来なさい。
 人間をとる漁師にしてあげよう。
            マタイ 4:19

イエス様はガリラヤで
宣教を開始されます。
そしてペテロとアンデレを
招かれるのです。

漁師であった彼らにイエス様は
「わたしについて来なさい。
 人間をとる漁師にしてあげよう」
と言われるのです。

その招きに彼らはすぐに応答し、
自分たちの仕事道具を置いて
イエス様に従うのです。

それからヤコブとヨハネの兄弟も
イエス様は招かれます。
彼らもまた舟と父親を残して
イエス様に従うのです。

彼らの素直さ、純粋さに
驚きを覚えます。
けれどこの後の彼らの歩みは、
平坦ではなかったのです。

イエス様につまずいたり、
失敗したり。
そんな彼らをイエス様は
ずっと見守り、導かれました。

私たちもイエス様に従っていく中で、
つまずいたり、
失敗することがあります。

でも一度、主が私たちに従う心を
与えてくださったのなら、
主はずっと見守ってくださるのです。

つまずいても、倒れても、
主がいつも支え、立たせて、
主から与えられた使命を
果たすことができます。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの招きを心から感謝します。

どうかあなたに従うことができるよう、
 私たちを助けてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月24日

悪魔の試み[マタイ 3:13-4:11]

そして、見よ、御使いたちが
 近づいて来てイエスに仕えた。
            マタイ 4:11

イエス様がヨハネから
バプテスマを受けられると、
天から次のような声がかけられます。

「これはわたしの愛する子。
 わたしはこれを喜ぶ」

それからイエス様はすぐに
宣教を開始されたのではありません。
悪魔の試みを受けるために、
御霊に導かれて荒野に上るのです。

イエス様は空腹の中、
サタンから三つの誘惑を受けます。

一つ目はは石をパンに変えること。
二つ目は主の守りを体験すること。
三つ目はすべての栄光を手に入れること。

これらの誘惑にイエス様は
みことばによって勝利されます。
私たちも歩んでいく中で、
様々な誘惑にさらされるのです。

そのときイエス様のように
みことばの確かさに委ね、
みことばによって
勝利することができたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、すべての誘惑にみことばによって

勝利することができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】1月23日

悔い改めにふさわしい実[マタイ 3:1-12]

それなら、悔い改めに
 ふさわしい実を結びなさい。
            マタイ 3:8

バプテスマのヨハネが
イエス様の宣教に先立って、
ユダヤの荒野で宣べ伝えます。

そうすると多くの人たちが
ヨハネのもとにきて、
自分の罪を告白し、
彼からバプテスマを受けるのです。

その中にはパリサイ人や
サドカイ人たちもいました。
そんな彼らを前にして
ヨハネは警告するのです。

悔い改めにふさわしい実を
結ぶようにと。
形だけ悔い改めても、バプテスマを
受けても意味がないからです。

では悔い改めにふさわしい実とは
どういうことでしょうか。
それは高慢な思いを捨て、
主の前にへりくだること。

私たちは悔い改めにふさわしい実を
結んでいるでしょうか。
クリスチャンを演じているだけに
なっていないでしょうか。

今日も自らを顧みて、
本当に主の前に自分の罪を認め、
悔い改めて、主に立ち返って
歩んでいきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、悔い改めにふさわしい実を

結ぶことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。