多くの罪を赦されている[ルカの福音書 7:36-50]
ですから、わたしはあなたに言います。
この人は多くの罪を赦されています。
彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、
愛することも少ないのです。
ルカ 7:47
パリサイ人がイエスさまを
食事に招きます。
そこに招かざる客が来るのです。
それは罪深いとみんなに
知られていた女性でした。
彼女はイエスさまの足もとに
近寄り、泣きながら
イエスさまの足をぬらす。
その涙を自分の髪でぬぐい
足に口づけをして、
香油を塗ります。
パリサイ人は驚いたでしょう。
と同時に、彼は思う。
イエスさまが預言者だったら、
罪深い女に触れさせるような
愚かなことをするだろうか。
その心の声をイエスさまは聞かれ
彼に一つのたとえ話をされます。
金貸しが500デナリと50デナリの
借金のある人たちの借金を帳消しにされた。
このうち、どちらが金貸しを
より多く愛するか。
パリサイ人シモンは答えます。
「より多く帳消しにしてもらったほうだ」
ではパリサイ人シモンと罪深い女性
どちらがより多くイエスさまを愛するか。
当然、罪深い女性です。
罪深い女性は自分の罪に苦しんでいた。
そしてイエスさまに出会い、
イエスさまの愛に触れ、
罪の赦しの確かさを味わう。
一方、パリサイ人シモンは
自分の罪に気づいていない。
いや気づいていても、
そんなに多くないと思っている。
でも大切なことは、罪は多くないと
思っていても、その罪を自分で
帳消しにすることはできないのだ。
主に赦してもらう必要がある。
自分の罪深さに気づけないと、
主の十字架の愛を受け入れられない。
そうすると主をより多く愛せない。
私たちはどうでしょうか。
自らの罪に向き合い、
主の赦しを求めているでしょうか。
そして主の赦しの確かさに委ね
主をより多く愛しているでしょうか。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、私の多くの罪を
赦してくださっていることを感謝します。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
つまずかない[ルカの福音書 7:18-35]
だれでも、わたしに
つまずかない者は幸いです。
ルカ 7:23
バプテスマのヨハネは
イエスさまが自分たちの望んでいた
救い主であるか確信がもてなくなる。
少し前にはイエスさまのことを
「見よ、世の罪を取り除く
神の子羊」と呼んでいたのに。
パリサイ人、律法学者たちも
ヨハネにつまずき、
イエスさまにつまずきました。
なぜつまずくのでしょうか。
それは自分の願っていた
お方ではなかったからでしょう。
私たちはいつも自分の願いを
優先し、そのように
動いてほしいと思う者です。
神さまの前に
正しく生きていると
誇っている人は特にそう。
ヨハネの教えを聞いて
悔い改めたのは、
自らを低くしている人たちでした。
私たちはイエスさまに
つまずいていないでしょうか。
そんなことあるわけないと
私たちは思います。
でも私たちの信仰が冷めているなら、
みことばを聞いても喜びもせず、
泣きもしないなら、
私たちは主につまずいているのです。
主はみことばによって悔い改めて
主を喜び、賛美するように
いつも招いておられます。
この招きに素直に応じ、
主こそ神ですと
信仰告白する一日でありますように。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あなたのみことばを喜び、
あなたのみことばによって
悔い改める者とさせてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
これほどの信仰[ルカの福音書 7:1-17]
わたしはイスラエルのうちでも、
これほどの信仰を
見たことがありません。
ルカ 7:9
イエスさまから信仰が
ほめられている人、
認められている人は
多くありません。
その一人が今日登場する
百人隊長です。
彼は異邦人でしたが
ユダヤ人たちに良くしてあげ
彼らから信頼されていたのです。
しかも部下に対しても
愛情深い人でした。
彼は部下の癒しのために
イエスさまに助けを求めます。
その求めにイエスさまは応え
百人隊長のところに向かうのですが、
彼はイエスさまがわざわざ自分の家に
来てもらうのは申し訳ないと思う。
彼の謙遜さ、イエスさまへの
リスペクトに驚きます。
そして彼は言うのです。
「ただ、おことばをください」
彼はイエスさまのことばの
力を信じていたのです。
ことばは必ず言った
とおりになると。
主のことばを信じる。
私たちは聖書を読んでいますし、
祈っています。
でも、そのみことばの力を
どれほど信じ、
信頼しているでしょうか。
頭の上をスーと通り過ぎて
しまうことが多いような気がします。
様々な場面で「ただ、おことばをください」と
祈り、みことばを待ち望むことができますように。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あなたのおことばを
今日も与えてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
私の梁[ルカの福音書 6:39-49]
あなたは、兄弟の目にある
ちりは見えるのに、
自分自身の目にある梁には、
なぜ気がつかないのですか。
ルカ 6:41
人のことはよく見えるのに
自分のことは見えない。
こんなことはよくあります。
自分の目にある梁を
取り除くとは、
どうすることでしょうか。
それは次にあるように、
自分の心から悪いものを除き
良いもので満たすことではないか。
また口先だけの信仰から
主のことばを聞いて
実行することでしょう。
このために大切なのは
日々イエスさまに出会い、
イエスさまの素晴らしさをほめたたえ
イエスさまのように生きられるように
祈り続けること。
このようにイエスさまのように生きる、
イエスさまの似姿に変えられていくとき、
私たちは自然と愛する家族、仲間の
ちりを取り除くことできるのです。
今日もイエスさまのように
生きられるよう、
ともにお祈りしていきましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、イエスさまのように
生きることができますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
父があわれみ深いように[ルカの福音書 6:27-38]
あなたがたの父が
あわれみ深いように、
あなたがたも、
あわれみ深くなりなさい。
ルカ 6:36
自分の敵、反対者を愛せと
イエスさまは命じられます。
また人からしてもらいたいと
望むとおりに、人にしなさいと。
これは私たちにとって
大きなチャレンジですね。
自分に敵対する者たちを
祝福し、祈るなんて不可能。
すぐに見返したくなりますし、
祝福ではなく、呪ってしまう。
返してもらうことを考えず
貸しなさいなんて、、、。
私たちは父なる神さまの
あわれみについていけない。
受け入れられないのです。
放蕩息子のたとえに出てくる
兄息子が弟息子を無条件で
迎えるのを許せないように。
結局は私たちが神さまのあわれみを
素直に受け入れられていない。
あわれみではなく、認めて欲しい。
これが私たちの本音である。
けれど私たちが主のあわれみなくして
生きられないと本当に分かったのなら、
父があわれみ深いように、
私たちもあわれみ深くなれるのです。
主のあわれみは尽きない。
このことを今週も味わい、
主のあわれみを求めて
歩むことができたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あなたがあわれみ深いように、
私たちもあわれみ深くなれますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
9時30分より ”イズミンキッズ” です。
10時30分より ”主日礼拝” です。
*YouTubeでのライブ配信もします。
→ こちらよりご参加ください。
律法にかなっているのは[ルカの福音書 6:1-11]
・・・安息日に律法に
かなっているのは、
善を行うことですか、
それとも悪を行うことですか。
いのちを救うことですか、
それとも滅ぼすことですか。
ルカ 6:9
律法学者・パリサイ人たちは
律法とユダヤ人の伝統を
間違いなく守ろうとしていました。
そのため多くの禁止事項があり、
それらを守り行えない人たちを
さばいていたのです。
弟子たちがしていた
穂を摘んで、手でもんで
食べることは安息日に
してはならないことでした。
安息日に、病気の人を
癒すにもダメだったのです。
でもイエスさまはその両方を
許容されました。
安息日は人を縛るために
定められたものではなかったのです。
安息日は主を愛し、隣人を愛する日。
私たちも「こうしなければ」という
考えに縛られ、愛が吹っ飛んで
しまうことがあります。
主が本当に望んでおられることは
何かをよく考え、主を愛し、
隣人を愛することができたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あなたを愛し、
隣人を愛する者としてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
罪人を招くために[ルカの福音書 5:27-39]
わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです。
ルカ 5:32
取税人レビにイエスさまは目をとめ、
「わたしについて来なさい」と
言われます。
その招きにレビはすぐに応じ
イエスさまに従うのです。
それからレビはイエスさまのために
盛大なもてなしをします。
そこに取税人や仲間たちを
招くのです。イエスさまに招かれた
喜びを分かち合います。
このことを批判的な目で
見ていたのがパリサイ人たちでした。
イエスさまが罪人たちと
食事をするのが許せなかったのです。
そんな彼らにイエスさまは言われます。
「医者を必要とするのは、
健康な人ではなく病人です。
わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです」
自分が正しい、立派な人に
イエスさまは必要ない。
でも果たして神さまの前に
正しい人は存在するでしょうか。
いいえ。すべての人は罪人。
でも多くの人はそれに気づかない。
だからイエスさまの招きに
応じられないのです。
逆に自らの罪深さを悟り、
主の招きに応じるなら、
それを自分だけのものに
できなくなります。
イエスさまをみんなに
紹介したくなるのです。
今、私たちはどうでしょうか。
罪人の自分を招いてくださった
イエスさまを分かち合うことが
できているでしょうか。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、罪人の私を招いてくださったことを感謝します。
この恵みを多くの人に分かち合うことができますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
信仰を見て[ルカの福音書 5:12-26]
「友よ、あなたの罪は赦された」
ルカ 5:20
イエスさまの周りには
いつもたくさんの人がいました。
彼らはイエスさまから
病気を治してもらっていたのです。
18節以降に登場する中風の人と
その友人たちもイエスさまに
病気を治してもらうために
イエスさまのところにきました。
でもイエスさまに群衆のために
イエスさまに近づけなかったのです。
そのため屋上に上り、瓦をはがして
寝かせたままイエスさまの前につり下ろす。
とても大胆な行動です。
これを見てイエスさまは
「友よ、あなたの罪は赦された」と
宣言されます。
実にイエスさまが見られたのは、
彼らの信仰でした。
イエスさまだったら
必ず直してくださるという信頼。
逆に律法学者たちは
「あれこれ考え始める」のです。
イエスさまだったらという
イエスさまへの信頼がありません。
私たちはどうでしょうか。
イエスさまは罪を赦し、
癒してくださるお方だと
心から信頼しているでしょうか。
疑いやすく、
あれこれ考えてしまう前に
主イエスさまの御力を信じて
歩むことができたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あれこれ考える前に、
あなたに信頼して歩めますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
おことばですので[ルカの福音書 5:1-11]
「主よ、私から離れてください。
私は罪深い人間ですから。」
ルカ 5:8
神のことばを聞こうとして
群衆が押し迫ってきたとき、
漁師であったシモンたちは
網を洗っていたのです。
群衆よりも神のことばへの
飢え渇きがないように見えます。
そんな彼にイエスさまは声をかけ
彼の舟の上で群衆を教えられるのです。
誰よりもイエスさまの近くで
みことばを聞くことができたのは
シモンでした。
そしてイエスさまはシモンに命じます。
「深みに漕ぎ出し、
網を下ろして魚を取りなさい」と。
このことばにシモンは動揺したはず。
さっきまで漁をしていたけれど
何も取れなかった。
こんな昼間にとれるわけがない。
けれどシモンは「でも、おことばですので」と
イエスさまのことばどおりに深みに漕ぎ出し
網を下ろすのです。
この素直さを私たちは
見習いたいと思います。
主のことばを聞いたとき、
いや無理でしょと否定する前に
「おことばですので」ととにかく従う。
そこに祝福があるのです。
それだけではありません。
私たちはみことばに従う時、
主を畏れる心が与えられるのです。
自らの罪深さを悟り、
主を求める心が
さらに深められます。
今日も主のことばに従い、
主を畏れ、主を求める思いが
増し加えられるように
ともにお祈りしましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父なる神様、あなたのことばに
従う力を与えてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。