息をつくため[出エジプト23:1-19]
あなたの牛やろばが休み、
あなたの女奴隷の子や寄留者が
息をつくためである。
出エジプト23:12
主なる神様は弱い人などに
情け深いお方ですが、
さばきにおいては
公平であるように命じられます。
それは偽ることを
主が嫌われるからです。
主の前にも、人の前にも
真実な歩みをすることを望まれています。
また同時に弱い人たちのことを
常に考えておられるのです。
7年目に土地を休ませること、
7日目に仕事をしないこと。
これらは立場の弱い人たちの
ためでもあったのです。
彼らが食べるものを得て、
息をつくため。
このような気遣いは、
主の私たちへの気遣い、
愛の配慮を思い出し、
感謝するためでもあります。
今日も一日、主の心を心として、
歩んでいけたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたの愛の配慮を感謝します。
主よ、私たちにあなたの心を与えてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
情け深いお方[出エジプト22:16-31]
彼がわたしに向かって叫ぶとき、
わたしはそれを聞き入れる。
わたしは情け深いからである。
出エジプト22:27
主なる神様は罪・悪に対して厳しく、
寄留者、やもめ、みなしご、貧しい者など
弱い者たちに対しては、
情け深いお方です。
彼らの叫びを主は聞き入れてくださり、
彼らを苦しめる者たちに報いられます。
私たちも情け深い主によって、
支えられ、助けられています。
だからこそ私たちもほかの人たちに対して、
情け深くあるよう、主は語られるのです。
今日一日、主のあわれみに生かされていることを覚え、
主のあわれみによって人を生かすことが出来ますように。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたは情け深いお方です。
どうか私たちも周りの人に情け深く生きられますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
隣人に真実であること[出エジプト22:1-15]
もし盗人が見つからないなら、
その家の主人は神の前に出て、
彼が隣人の所有物に決して
手を触れなかったと誓わなければならない。
出エジプト22:8
隣人に対して真実であること、
隣人に対する負債は、
しっかり対処すること、
これらのことが問われているのです。
日常生活の中で、
予期しないことが起こります。
自分の非ではなくても責められ、
責任を負わなければならない時もあるのです。
言い訳して、自分を守りたい、
そんな気持ちにもなります。
けれど主は問題、課題に向き合うように、
告げられるのです。
パウロはコリント人への手紙第一6章で、
さらに私たちにチャレンジを与えます。
それは不正を甘んじて受けること、
だまし取られたままでいること。
自分の主張をただ訴えるのではなく、
主の前に積極的に委ねていくことが
勧められています。
本来の私たちでは無理でしょう。
だからこそ主に祈り、
御霊の導きに従って歩んで参りましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたの前にも、
人の前にも真実に歩むことが出来ますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
自分に科せられたとおり[出エジプト21:12-36]
もし彼に償い金が科せられたなら、
彼は自分に科せられたとおりに、
自分のいのちの贖いの代価を
支払わなければならない。
出エジプト21:30
自分がしたことの報いを受けることが
この箇所で繰り返し定められています。
でも自分が行った以上のこと、
自分がされた以上のことを
償うことは禁止されているのです。
かなり細かく規定されています。
これはイスラエルの民を
守るためでもあったのでしょう。
興味深いのは、
30節「自分のいのちの贖いの代価を
支払わなければならない」というところです。
詩篇49篇には「たましいの贖いの代価は高く
永久にあきらめなくてはならない。」とあります。
ですから本来、私たちはいのちの贖いの代価を
支払うことなどできないのです。
そんな私たちの贖いの代価として
イエス様がご自身を与えてくださいました。
このイエス様によって
私たちは新しいいのちが与えられ、
今、生かされているのです。
この恵みを心から感謝して歩んでいきましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、イエス様の贖いを心からありがとうございます。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
聖書箇所:出エジプト記20章1-17節
タイトル:10のことば
9時30分より ”イズミンキッズ”
10時30分より ”主日礼拝” が持たれます。
*YouTubeでのライブ配信もします。
→ こちらよりご参加ください。
自由の身として[出エジプト21:1-11]
しかし七年目には自由の身として
無償で去ることができる。
出エジプト21:2
奴隷に関する教えです。
ずっと奴隷とすることを禁じています。
7年目には自由の身とするようにと。
けれど例外があったのです。
それは奴隷自身が
去りたくないと言うときです。
そのとき、彼は一生主人に
仕えることができます。
私たちは長年、罪の奴隷として
苦しんできたのです。
そんな私たちを父なる神様はあわれんでくださり、
キリストにあって、自由の身としてくださいました。
だからもう何にも縛られなくなったのです。
けれどパウロはその自由を肉の働く機会としないで、
愛をもって互いに仕え合いなさいと
教えられています。
実に私たちは罪の奴隷から解放されたとき、
主に仕え、お互いに仕える者とされたのです。
このことを心に留めて、
主の自由を味わって生きましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたから与えられた自由をもってあなたに仕え、
お互いに仕え合っていくことができますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
神への恐れ[出エジプト20:18-26]
「恐れることはありません。
神が来られたのは、
あなたがたを試みるためです。
これは、あなたがたが罪に陥らないよう、
神への恐れがあなたがたに生じるためです。」
出エジプト20:20
イスラエルの民は、主の臨在を前にして
恐れおののきます。
直接、主のことばを聞いたら
死んでしまうと思うのです。
これまで主を試みて、
不平ばかりを言っていたとは
思えない恐れようです。
でもこれは健全な恐れでした。
彼らが主を無視して、
他の神々に走ることがないように
主ご自身が彼らの心に
恐れを生じさせられたのです。
私たちは主のことばを聞くときに、
恐れを感じることがあまりありません。
もしかしたら、みことばを読んでいないという
罪悪感はあるかもしれませんが、、。
だからこそ主を健全に
恐れることができるように、
祈っていきましょう。
それこそが私たちが罪に
陥らない唯一の道だからです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたを健全に恐れることを教えてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
10のことば[出エジプト20:1-17]
あなたには、わたし以外に、
ほかの神があってはならない。
出エジプト20:3
主なる神様はまずモーセに、
ご自身がエジプトで奴隷であった
イスラエルの民を導き出した
神であると告げるのです。
その後で、一般的に十戒と言われる
10の戒めを与えられます。
禁止事項が並んでいて、
少し堅苦しさを感じるのです。
けれどこの戒めは、
私たちをさばくためではなく、
私たちが生きる指針であり、
私たちへの愛のことばなのです。
そのように考えて改めて
十戒を思い巡らすと、
そこから多くの恵みが
あふれ出てきます。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたの10のことばを感謝します。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
民を聖別する[出エジプト19:14-25]
モーセは山から民のところに下りて行って、
民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。
出エジプト19:15
モーセは民が主なる神様に会うために
彼らを聖別します。
また主に近づく祭司たちも
自らで聖別する必要があったのです。
今、私たちが礼拝するときに比べて
大きな差があります。
私たちは礼拝を通して、祈りを通して
主に近づくことがゆるされているのです。
それは私たちが主イエス様の
十字架の血潮によって
きよめられているからです。
だから私たちは大胆に
主に近づくことができるのです。
この恵みを主に感謝して、
主の御前に今日も出て行きましょう。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
父よ、あなたがきよめてくださっていることを感謝します。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。