【日々のみことば】3月19日

最後まで耐え忍ぶ[マルコ 13:1-13]

しかし、最後まで
 耐え忍ぶ人は救われます。
         マルコ 13:13

神殿を立派だと感動する
弟子たちにイエス様は
神殿は崩壊すると
預言されるのです。

それを聞いて、神殿が崩壊し
すべての終わりが近づくときの
しるしは何かを質問します。

偽キリストが現れ、
戦争や戦争の噂を聞く。
地震、飢饉が起こる。

でもこれらは産みの
苦しみの始めにすぎない。
クリスチャンは迫害され、
すべての人に憎まれる。

とても苦しい、悲惨なことが
たくさん預言されています。
未来に対して、少しネガティブ
になりそうです。

そして続く13節でイエス様は、
最後まで耐え忍ぶ人は
救われると言われるのです。

しかし耐え忍ぶことが
できるだろかと思います。
そんな強い信仰は自分には
ないような気がするのです。

けれど耐え忍ぶことが
できるのは私たちの
強い意志ではなく、
主から来るものでしょう。

私たちはただ主に信頼し、
どんなときにも変わらず、
主とともに歩むこと。

終わりの日をただ
恐れるのではなく、
耐え忍ぶことが
できるよう祈りましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、最後まで耐え忍ぶ信仰を与えてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月18日

レプタ銅貨二枚[マルコ 12:35-44]

この人は乏しい中から、
 持っているすべてを、
生きる手立てのすべてを
 投げ入れたのですから。」
          マルコ 12:44

私たちの一番の関心は
何でしょうか。
律法学者たちの関心は、
人々から敬われ、
信仰深くみられること。

お金持ちも自分たちが
どれだけ多くのものを
献げているかを誇っていました。

でもイエス様が目に
留められたのは、
貧しいやもめだったのです。

彼女は自分の生きる手立てを
すべて主に献げます。
この行為は誰にも
注目されませんでした。

彼女自身、そのことを誰かに
知らせようというつもりは
なかったでしょう。

ただ彼女は主に信頼し、
すべてを主に委ねた。
その信仰を主は
見てくださるのです。

この後、彼女がどうなったか
何も書かれていません。
でも全面的に主に信頼した彼女を
主は決して見捨てられなかったでしょう。

私たちが彼女を見倣うことは
難しいかもしれません。
しかし人の目よりも、
主の目にかなうことを
選び取っていくことは
できるのではないでしょうか。

自分を誇り、
人々から敬われることを
第一にするのではなく、
主を誇るものとさせていただきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたを誇り、

あなたの目にかなうことを
 選び取ることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月16日

神のものは神に[マルコ 12:13-27]

「カエサルのものはカエサルに、
 神のものは神に返しなさい。」
          マルコ 12:17

祭司長、律法学者、長老たちは
イエス様を訴える口実を
見つけるために、パリサイ人と
ヘロデ党の者をイエス様のところに
遣わされます。

ヘロデ党とはヘロデ家の支持者で、
ローマ帝国に近い立場でした。
逆にパリサイ人はローマ帝国の支配から
解放されることを願っていたのです。

ですから普通だったら、
一緒に行動するはずのない彼らが、
イエス様を陥れるために手を組みます。

彼らはカエサルに税金を
納めるのは、律法に
かなっているかを問います。

それに対してイエス様は、
デナリ銀貨を持って来させ、
そこに誰の肖像と銘が
刻まれているかを問われるのです。

そこには確かにローマ皇帝
カエサルの肖像と銘が
刻まれていました。
だからイエス様は言われるのです。

「カエサルのものはカエサルに、
 神のものは神に返しなさい」

ここでの「返す」とは、
報いる、果たすとも
訳すことができます。

これは神様のものをもって
神様に報いなさいという風にも
解釈できるのです。

私たちはすべて神様から与えられ、
私たちは神様のものです。
だからこそ私たちは私たち自身を通して
神様に報いるように召されています。

自分のために生きる人生から、
神様のために生きる人生へ。
それこそ私たちの真の生きる目的であり、
私たちにとって最高の幸せなのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたのものとされた私たちが

あなたのために生きることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月15日

要の石[マルコ 11:27-12:12]

「家を建てる者たちが
 捨てた石、
 それが要の石となった。
         マルコ 12:10

祭司長、律法学者、長老たちは
イエス様の存在が邪魔でした。
自分たちとは違う考えを大胆に
語ることが許せなかったのです。

とにかく彼らは頑なでした。
バプテスマのヨハネも、
イエス様も受け入れず、
自分たちを正当化していたのです。

結局、彼らは神様を信じ、
従っていたのではなく、
自分勝手なことをし、
自分が絶対だと勘違いしていました。

だからこそ彼らはイエス様を
殺してしまうのです。
このことをイエス様がたとえで
語られても、彼らは怒ります。

反省したり、悔い改めないのです。
これが大きな問題でした。

私たちも、彼らと変わらない
頑なさがあります。
自分の正しさを押しつけ、
神様のみこころと
正反対のことをしてしまう。

自分の願いを推し進めるなら、
私たちは神様に反逆する
ものとなることを覚え、
常にみことばによって
自分自身を探っていただく
ことが必要でしょう。

そして自らの罪に気づいたら、
そのままにせず、悔い改めて
歩むことができたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、悔い改めて生きる力をください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月14日

枯れたいちじくの木[マルコ 11:12-26]

わたしの家は、
 あらゆる民の祈りの家と
呼ばれる。
         マルコ 11:17

イエス様は毎日、ベタニアから
エルサレムに通っておられました。
イエス様は朝食を取る時間が
なかったのでしょうか。

空腹を覚えられ、いちじくの木に
実がなっているか
どうかを見に行かれます。

そうすると、実がなっていない。
それは実のなる季節
ではなかったから。

イエス様はそんなことは
百も承知のことだったでしょう。
それなのにいちじくの木を
呪われるのです。

これは何を意味しているのでしょうか。
恐らくイエス様はいちじくが実を
結んでいないことを通して、
ユダヤ人たちの不信仰を
指摘されたのではないかと考えられます。

この後、イエス様が宮きよめをされますが、
ユダヤ人たちの礼拝は、神様に喜ばれず、
何の実を結んでいなかったのです。
祈りの家を強盗の巣にしていた。

私たちはどうでしょうか。
私たちは神様の喜ばれる礼拝をささげ、
御霊の実を結んでいるでしょうか。
神様を信じ、神様に祈っているでしょうか。

主なる神様に心を探っていただき、
実を結ぶ歩みができるよう、
お祈りしましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちが実を結び歩みを

していくことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月13日

祝福あれ[マルコ 11:1-11]

ホサナ。祝福あれ、
 主の御名によって
来られる方に。
       マルコ 11:9

イエス様は子ろばに乗って
エルサレムに入城されます。
柔和な王として
人々を導かれるために。

多くの人々はイエス様を
喜び叫びながら
迎えるのです。

彼らはイエス様がまことの
王であり、救い主であると
考えています。

この彼らがこの後、イエス様を
「十字架につけろ」と
叫ぶことになるのです。

それはイエス様が自分たちの
望む救い主ではないと
失望したからでしょう。

イエス様に自分たちの
理想をぶつけると、
私たちもつまずき、
イエス様を否定したくなります。

イエス様を私たちの側に
近づけるのではなく、
私たちがイエス様に
へりくだって近づく。

これがイエス様に従う
私たちの道でしょう。
今日も一日、主に近づき、
主とともに歩みましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、へりくだってあなたに近づき、

イエス様に従う者とさせてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月12日

あわれんでください[マルコ 10:46-52]

ダビデの子よ、
 私をあわれんでください。
        マルコ 10:48

目の見えなかったバルティマイは
イエス様がおられると知り、
イエス様にあわれみを求めます。

あまりにも大きな声で
叫ぶので、人々は彼を
黙らせようとするのですが、
さらに彼はイエス様に
あわれみを請うのです。

それを聞かれたイエス様は
立ち止まり、
彼をご自分のところに
連れてこさせます。

その彼にイエス様は
何をして欲しいのかと
問われるのです。

この問いに彼は素直に
「目が見えるようにしてください」と
答えます。

イエス様はなぜこのような
当たり前に見える質問を
彼にしたのでしょうか。

それは彼がイエス様に
お金などの施しを求めたのか、
目の癒やしを願ったのかを
判断するためだったのでしょう。

バルティマイはイエス様に信頼し、
イエス様だったら自分の目を
癒やしてくださると信じていたのです。

その信仰を、信頼をイエス様は
喜ばれ、彼の目を癒やされました。

私たちはイエス様に何を
求めているでしょうか。
本質的なこと、もっとも必要なものを
求めているでしょうか。

それとも表面的な願いでしょうか。
いつでも私たちはイエス様に
信頼しているかどうかが
問われているのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私はあなたに何をして欲しいのかを

しっかり認識して祈ることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月11日

仕えられるためではなく[マルコ 10:32-45]

人の子も、仕えられるため
 ではなく仕えるために、
また多くの人のための
 贖いの代価として、
自分のいのちを与えるために
 来たのです。」
          マルコ 10:45

イエス様が弟子たちの
先に立って行かれる。
これに人々は驚き、
恐れを覚えるのです。

それはイエス様から
にじみ出る覚悟のような
ものを感じたからでしょう。

そして再び、ご自分が
エルサレムで苦しみを受け、
殺され、三日目によみがえると
弟子たちに伝えられるのです。

このようにイエス様の
覚悟を知ってもなお、
ヤコブとヨハネは
自分のことしか考えられません。

イエス様がイスラエルの王と
なられるとき、自分たちを
右大臣左大臣にして欲しいと
願うのです。

そんな彼らにイエス様は、
自分たちが何を求めているのか
分かっていない。

わたしが飲む杯、
わたしが受けるバプテスマを
受けることができるかと
彼らに問うのです。

これはイエス様の十字架の
苦しみのことでしょう。
彼らは即座に「できます」と
答えるのです。

彼らは本当に無知で、
よく分かっていなかったのに、
返事をしてしまう。

それに対してイエス様は
確かにイエス様の十字架の
苦しみを自らの苦しみとして
受けることになると言われる。

後々、彼らはイエス様のゆえに
殉教していくことになるのです。

さてヤコブとヨハネのことを
聞いた他の弟子たちは、
腹を立てます。
二人に出し抜かれたと思う。

このように人の上に立ち、
偉くなりたいと考える
弟子たちにイエス様は
皆に仕えるようになれと命じられます。

その手本をしてくださったのが
イエス様でした。イエス様は
人々と弟子たちに仕えられ、
ご自分のいのちを与えてくださいました。

この恵みは、今私たちにも与えられ、
私たちはイエス様が与えてくださった
いのちによって生かされているのです。

そして私たちはイエス様にならい、
低く、仕えるように召されています。
どうしても上昇志向の私たちが
主によって低く低くされますように。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、イエス様が私たちのための

贖いの代価として、ご自分のいのちを
 与えてくださったことを感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。