【日々のみことば】3月31日

ただ中に[ルカの福音書 17:20-37]

見なさい。
 神の国はあなたがたの
ただ中にあるのです。
           ルカ 17:21

神の国はいつ来るのかと
尋ねるパリサイ人に
イエスさまは神の国は
あなたがたのただ中にあると
伝えるのです。

すなわち神の国は
もう来ていると
いうことでしょう。

神の国、神の王国とは
神さまを第一とし、
神さまの支配が
及んでいるところ。

ですから今も私たちの
ただ中に神の国はあり、
どんどん広がっているのです。

25節にあるように、
人の子イエスさまは今から
約2000年前に多くの苦しみを受け
人々に捨てられ、十字架で死なれました。

そのイエスさまが
再び再臨されると
聖書は約束しているのです。

しかも、そのときは突然で
自分のいのちを救おうと
努める者はそれを失い、
自分のいのちを失う者は
いのちを保つとあります。

自分のことばかりを考え、
主を忘れるならば、
いのちを失うと。

いつも主を中心に
自分に死に
主を求めていくなら
そこにいのちがあると。

今日もう一度
イエスさまの十字架と
ともに死んだことを
覚えることができたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、自分に死に、キリストにあって

生きる恵みを覚えることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月29日

なすべきことを[ルカの福音書 17:1-10]

「私たちは取るに
 足りないしもべです。
 なすべきことをしただけです」
と言いなさい。
           ルカ 17:10

つまずくが起こるのは避けられない。
でもつまずきをもたらす者は
わざわいだと
イエスさまは言われます。

そのために大切なことは
自分自身に気をつけること。
そして人を赦すこと。

このイエスさまの話を聞きながら
使徒たちはイエスさまに願うのです。
「私たちの信仰を
 増し加えてください」と。

自分自身に気をつけること、
人を赦すには、
信仰が増し加えられる必要があると
恐らく彼らは感じたのでしょう。

そんな彼らにイエスさまは
からし種ほどの信仰があれば、
どんなことでもできると言われます。

さらに信仰が増し加えられるよりも
主が命じられたことを行い、
いつでも謙遜であれと命じられるのです。

自分がひとかどの人物だと思うと
人をつまずかせ、赦すことができない。
謙遜になすべきこと、
委ねられたことを行えたら感謝です。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私は取るに足りないものです。

なすべきことをすることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月28日

ラザロの慰め[ルカの福音書 16:14-31]

彼らにはモーセと預言者がいる。
 その言うことを聞くがよい。
           ルカ 16:13

「金銭を好むパリサイ人」という
表現は衝撃的です。
彼らは真面目で正しく
信仰深いとされながら、
「世の中、金だ~」と
考えていたということでしょうか。

そんな彼らにお金があっても、
金持ちと貧しいラザロの
話をされます。

ラザロは、この世において
何の報いも受けず、
苦しんでいました。

金持ちはそんなラザロを
横目で見ながら、あわれまず、
贅沢三昧していたのです。

死後、彼らの立場は逆転します。
ラザロはアブラハムの懐で
慰められます。

金持ちはよみで苦しみもだえる。
苦しみの中で金持ちは
アブラハムにお願いするのです。

ラザロを自分のところに送って
自分の舌を冷やしてほしいと。
アブラハムはそれは無理だと。

「私たちとお前たちの間には
 大きな淵がある」から。
それを聞いて金持ちは叫ぶ。

「ラザロを家族のところに
 送って欲しい。
 自分の家族までこんな苦しい
 ところに来てほしくないから」

けれど、この願いも退けられる。
「彼らにはモーセと預言者がいる。
その言うことを聞くがよい」と。

金持ちは分かっていた。
自分の家族は自分と同じように
モーセと預言者の声に
聞くわけがないと。

だから金持ちはもう一度願う。
死人がよみがえったら
彼らは悔い改めるかもしれない。

その願いも退けられる。
モーセと預言者たちに
耳を傾けないのなら、
死人が生き返っても、
彼らは聞き入れないだろうと。

とても恐ろしいたとえです。
みことばが私たちには
与えられている。

それを信じ、従うなら
いのちがあり、拒絶するなら
滅びがある。

これが聖書の語る真理。
私たちはどうでしょうか。
みことばに聞き従っているでしょうか。
頑なになっていないでしょうか。

そして私たちがみことばに
聞き従うことが家族・
友人たちの救いにつながることも
忘れずに歩むことができたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたのみことばに

聞き従うことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月27日

忠実であること[ルカの福音書 16:1-13]

あなたがたは、
 神と富とに
仕えることができません。
           ルカ 16:13

聖書の中で難解な箇所の一つ。
とくに8,9節が良く分からない。
主人は不正な管理人によって
不利益を被っているはずが、
彼が賢く行動したのをほめる。

どうみても不正な管理人は
自分本位で、不正に不正を重ね、
全く反省していない。

彼の何が賢く、
褒められることだったのか。
一つは自分が生きる方策を
自ら考えたこと。

どうすれば仕事を失ったときに、
人々が自分を家に迎えてくれるかを
彼は思いめぐらし、実行するのです。

ここでのポイントは、
自分を家に迎えてくれる
人々をどう備えるか。

だから彼は主人の財産を直接
自分のものとしません。
自分の懐に隠さないのです。

そうしたら恐らく主人の逆鱗に
触れることになったでしょう。
不正な管理人はある意味、
人任せな人生を歩んでいます。

自分で頑張って、
自分の力で、
生き抜こうとしないのです。

これは私たちも見習うべきところ。
私たちもどうすれば永遠の住まいに
迎えられるかを考え、
行動することが求められています。

神任せの人生を歩む。
自分に与えられたもので
自分自身を富ませるのではなく、
永遠の住まいに迎えられるために
忠実に用いていく。

そして富に仕えず、
神さまに常に仕えていく。
そうすると私たちだけでなく、
私たちの周りの人たちも豊かにされ、
永遠の住まいにともに
迎えられることでしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたに委ねる人生を

歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月26日

我に返って[ルカの福音書 15:11-32]

ところが、まだ家までは
 遠かったのに、
父親は彼を見つけて、
 かわいそうに思い、
駆け寄って彼の首を抱き、
 口づけした。
           ルカ 15:20

一般的に”放蕩息子のたとえ”と言われます。
ここには主に3人の人物が登場します。
父親、兄息子、弟息子。

兄息子は真面目で正しく
曲がったことが嫌い。
それが彼の誇りであり、
喜びであった。

弟息子は自由奔放。
親とか、家とかに
縛られたくなくて
一日も早く親元を離れ
自由になりたかった。

父親は二人の息子に対し
分け隔てなく愛し、
彼らの意志にすべてを
任せていました。

弟息子は父親から財産の
分け前をもらって家を出て、
自由を謳歌するのです。

ところが財産を
湯水のように使った結果
無一文になります。

そして今まで父親のもと
にいたときには
味わったことのない
貧しさを経験します。

そのとき彼はハッと
我に返るのです。
父親を思い出す。

いや父親というよりは
父親のところで食べた
パンを思い出す。

彼は生きるために
父親のところに行こうと
決意するのです。

でも勝手に出てきた手前、
父親が自分のことをすんなり
受け入れてくれるとは
考えられない。

だから彼は父親のもとに
帰った時に、どのように
言うかを練習するわけです。

自分は天にも、
父親にも罪を犯した。
息子と呼ばれる資格はない。
雇人の一人にしてください。

何だか都合の良いことばに
聞こえなくもないが、
彼が生きるために
精一杯考えた答えでした。

そんな彼を父親は待っていた。
家まで遠かったのに、
父親は彼を見つけて
可哀そうに思い、駆け寄る。

彼を抱き、口づけする。
弟息子が練習してきた
ことばを遮り、
彼を最高のもので
息子として迎える。

何よりも大切なことは
主が望んでおられることは
我に返り、主のもとに
帰ることであると分かる。

それを主は何よりも
待っていてくださる。
どんなに父なる神さまから
離れていても
立って、父なる神さまのもとに
帰りましょう。

一方で、兄息子は弟息子が
帰ってきたことを喜ばない。
あんな自由奔放にやってきたやつが
盛大に迎えられることが許せない。

兄息子の気持ち、
痛いほど良くわかります。
自分の真面目さが
否定されたような感覚。

兄息子は弟息子が
お父さんからお灸をすえられ
2,3年でも召使として
仕えるように命じられたら、
少しは気持ちが楽だったでしょう。

彼はお父さんのあわれみ深さに
全く共感できません。
お父さんの喜びを
自分の喜びとできないのです。

私たちも、このようなことがあるでしょう。
どうして自分だけ、あの人はずるい。
そんな気持ちになり、
どんどん心が神さまから離れてしまう。

父なる神さまはどこまでも
あわれみ深いお方。
このあわれみに私たちも共感し、
私たちもあわれみ深くなる。

弟息子であった私たちが
兄息子になり、最終的に
父となる歩みを願い、
祈っていけたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたのあわれみを、

私のあわれみとさせてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月25日

大きな喜びが天に[ルカの福音書 15:1-10]

一人の罪人が悔い改めるなら、
 悔い改める必要のない九十九人の
正しい人のためよりも、
 大きな喜びが天にあるのです。
            ルカ 15:7

取税人、罪人たちが
イエスさまに近づき、
話を聞こうとします。

普通、悪いことをした人、
後ろめたさがある人は、
正しく、先生と呼ばれる人に
近寄りがたい。

責められたり、
白い目で見られたり、
冷たくあしらわれて
しまうのではないかと
恐れているからです。

でもイエスさまの周りには
罪人たち、世間から
見放された人たちが
近寄ってくるのです。

彼らはイエスさまから
責められたり、
拒絶される可能性がないと
考えていたのでしょう。

彼らは安心してイエスさまの
ところに行って、
イエスさまのところで
安らぐことができたのです。

イエスさまの話を聞いても、
ただ非難されているように感じず、
そこに深い愛があることが
分かっていたようです。

今、教会は、そして私は
イエスさまのようであるか、
それともパリサイ人、
律法学者のようであるか。

誰もが安心して教会に行き、
私たちに近づき、
みことばに聞くことが
できているだろうか。

う~ん。残念ながら
たくさんの鎧を身につけ、
良い人を演じ、
素の自分が出せない。

だから多くの人は教会に、
私たちに近づいてこれない。
こんな自分は受け入れられない
のではないかと不安になる。

私たちは初めの愛から離れ、
冷めた愛、冷たい目で見ている。
私たちは本来、罪人で
イエスさまの恵みと十字架の愛で
あわれみによって救われたのに
それを忘れている。

イエスさまの愛を自らの愛とする。
これは本当に難しいです。
願わくば「一人の罪人が悔い改める」
イエスさまに立ち返ることを祈り、
その救いをともに喜ぶことができますように。

律法学者、パリサイ人から
イエスさまのように愛の人となるべく
周りの人たちをキリストの愛で包み
受け入れていくことができるよう、
お祈りしていきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、冷めた愛からキリストの愛で

愛する心を与えてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月24日

主の弟子となる[ルカの福音書 14:25-35]

自分の十字架を負って
 わたしについて来ない者は、
わたしの弟子に
 なることはできません。
           ルカ 14:27

ここでもイエスさまは
何を第一にするかを
問われています。

家族、いのち、財産。
これらは、この世において
私たちが第一にしてしまう
リストでしょう。

けれど主の弟子として
歩むために大切なのは
それらを捨てて、
自分の十字架を負って
イエスさまについて行くこと。

このイエスさまについて行くとは
何も考えず、風まかせに
するということではありません。

28節以降にあるように
しっかり計算し、
座って考える。

自分が何をすべきか、
何が主のみこころかを
思いめぐらし、
それに従って生きる。

それが地の塩として
この世に遣わされている
私たちの使命でしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、何気なくではなく、

あなたのみこころを思いめぐらし、
 あなたの弟子として歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月22日

答えることができない[ルカの福音書 14:1-14]

彼らは黙っていた。
 それで、イエスは
その人を抱いて癒やし、
 帰された。
           ルカ 14:4

イエスさまをじっと
見つめる人たち。
彼らはイエスさまに何を
期待していたのでしょうか。

期待していたのではなく、
イエスさまを訴える口実を
見つけようとしていたのです。

彼らは自分たちが神さまの前に
正しく生きていると
自負していました。

このことが彼らのうちから
愛をうばい、冷たい死んだ心を
生み出すことになるのです。

神さまが望んでおられるのは
あわれみ。私たちが人をさばいたり、
自分だけ正しいのだと
誇ることではありません。

イエスさまは水腫で苦しむ人を
抱き寄せ、癒される。
病気の癒し以上に彼の心は
どれほど慰められたでしょうか。

私たちはどうでしょうか。
イエスさまをじっと見るだけですか。
冷めた心で、自分さえ良ければ
と思っていないでしょうか。

私たちの内に住んでおられる聖霊が
そのような冷めた心、愛のない行いを
明らかにしてくださったとき、
黙っていないで、
「主よ、私の冷めた愛を悔い改めます」と
祈ることができたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、イエスさまが抱いて癒されたように、

私たちも隣人に愛を示すことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。