【日々のみことば】3月26日

我に返って[ルカの福音書 15:11-32]

ところが、まだ家までは
 遠かったのに、
父親は彼を見つけて、
 かわいそうに思い、
駆け寄って彼の首を抱き、
 口づけした。
           ルカ 15:20

一般的に”放蕩息子のたとえ”と言われます。
ここには主に3人の人物が登場します。
父親、兄息子、弟息子。

兄息子は真面目で正しく
曲がったことが嫌い。
それが彼の誇りであり、
喜びであった。

弟息子は自由奔放。
親とか、家とかに
縛られたくなくて
一日も早く親元を離れ
自由になりたかった。

父親は二人の息子に対し
分け隔てなく愛し、
彼らの意志にすべてを
任せていました。

弟息子は父親から財産の
分け前をもらって家を出て、
自由を謳歌するのです。

ところが財産を
湯水のように使った結果
無一文になります。

そして今まで父親のもと
にいたときには
味わったことのない
貧しさを経験します。

そのとき彼はハッと
我に返るのです。
父親を思い出す。

いや父親というよりは
父親のところで食べた
パンを思い出す。

彼は生きるために
父親のところに行こうと
決意するのです。

でも勝手に出てきた手前、
父親が自分のことをすんなり
受け入れてくれるとは
考えられない。

だから彼は父親のもとに
帰った時に、どのように
言うかを練習するわけです。

自分は天にも、
父親にも罪を犯した。
息子と呼ばれる資格はない。
雇人の一人にしてください。

何だか都合の良いことばに
聞こえなくもないが、
彼が生きるために
精一杯考えた答えでした。

そんな彼を父親は待っていた。
家まで遠かったのに、
父親は彼を見つけて
可哀そうに思い、駆け寄る。

彼を抱き、口づけする。
弟息子が練習してきた
ことばを遮り、
彼を最高のもので
息子として迎える。

何よりも大切なことは
主が望んでおられることは
我に返り、主のもとに
帰ることであると分かる。

それを主は何よりも
待っていてくださる。
どんなに父なる神さまから
離れていても
立って、父なる神さまのもとに
帰りましょう。

一方で、兄息子は弟息子が
帰ってきたことを喜ばない。
あんな自由奔放にやってきたやつが
盛大に迎えられることが許せない。

兄息子の気持ち、
痛いほど良くわかります。
自分の真面目さが
否定されたような感覚。

兄息子は弟息子が
お父さんからお灸をすえられ
2,3年でも召使として
仕えるように命じられたら、
少しは気持ちが楽だったでしょう。

彼はお父さんのあわれみ深さに
全く共感できません。
お父さんの喜びを
自分の喜びとできないのです。

私たちも、このようなことがあるでしょう。
どうして自分だけ、あの人はずるい。
そんな気持ちになり、
どんどん心が神さまから離れてしまう。

父なる神さまはどこまでも
あわれみ深いお方。
このあわれみに私たちも共感し、
私たちもあわれみ深くなる。

弟息子であった私たちが
兄息子になり、最終的に
父となる歩みを願い、
祈っていけたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたのあわれみを、

私のあわれみとさせてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。