【日々のみことば】11月12日

あわれみを乞う[ヨブ記 9:1-16]

私をさばく方に対して、
 あわれみを乞うだけだ。
          ヨブ記 9:15

ヨブはビルダデが語ることは
その通りだと認めます。
でも誰が主の前に正しくあるかと
問うのです。

そして天地万物を造られ、
今も支配しておられる主にあって
自分は無力で、対抗することができないと
答えます。

ヨブは自分が主の前に誠実に
歩んできたと思っていたのです。
確かに彼の誠実さは
主も認めています。

それなのになぜ自分が
苦しみにあっているのか、
理解できない。混乱しています。

それでも彼は主を恨まない。
主にあわれみを乞うのです。
これが苦しみにあっているヨブの
主への応答でした。

私たちは主がなさることの
すべてが分かるわけではありません。
いや分からないことの方が多い。

だからこそ私たちは苦しみの中で、
主のあわれみを乞い求め、
主を待ち望む。
それしか私たちには救いがありません。

このように主に信頼する者は、
失望させられることはないという
確かな望みに生きていけたら幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちをあわれんでください。

あなたの確かさに信頼する者となりますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月11日

神さまの義[ヨブ記 8:1-22]

神がさばきを曲げられるだろうか。
 全能者が義を曲げられるだろうか。
            ヨブ記 8:3

ヨブの二人目の友人ビルダデ。
彼もまたヨブが神さまの前に
罪を犯し、その報いを
受けていると考えています。

彼はヨブが純粋で
真っ直ぐなら
神さまが奮い立ち、
義の住まいが回復さえると。

神さまを敬わない人の
望みは消え失せると。
さらに神さまは誠実な人を
退けることがないと。

ビルダデもまた正しいことを
語ります。彼のことばは
間違っていないのです。

しかしながら苦しみの
ただ中にあるヨブには
届かなかったのではないか。

友人たちのことばには
神さまの愛が語られない。
そして自分たちこそ正義だと
思い込んでさばく。

神様はすべてを杓子定規で考え、
行われるお方ではありません。
私たちをどうにかして救うために、
赦し、あわれんでくださるお方。

ヘセド、いつまでも
変わることのない愛を
常に私たちに注いでくださる。

この愛によって私たちは
今日も立つことができるのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの変わらない愛によって、

今日も生かされていることを感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月10日

人とは何ものなのでしょう[ヨブ記 7:1-21]

人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを尊び、
これに心を留められるとは。
          ヨブ記 7:17

ヨブは苦しみの中で
主なる神様に嘆きます。
「もういやです。いつまでも
生きたくありません」と。

でも彼は主が自分を見捨て、
自分を愛して下さらないとは
考えていないのです。

主が自分を尊び、
心を留めて下さると
信じています。

けれどそのように心を
留めて下さることが、
ヨブには苦痛に感じるのです。

彼は主が自分の背きを赦さず、
咎を取り去って下さらないと、
思っているのです。

苦しみの中で弱きになるヨブ。
主の存在を否定しなくても、
主を呪うことはなくても、
信仰が弱ることはあります。

私たちも心身ともに
苦痛を覚えるとき、
弱きになります。

その弱さ、嘆きを包み隠すことなく
主に告白することは大切。
その嘆きを主は必ず聞いてくださいます。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、弱きになったとき、

あなたの前に強がることなく、
 嘆くことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月9日

落胆している者[ヨブ記 6:1-30]

落胆している者には、
 友からの友情を。
さもないと、全能者への
 恐れを捨てるだろう。
          ヨブ記 6:14

ヨブはエリファズに向かって反論します。
エリファズのことばは、
ヨブにとって何の助けにも
ならなかったのです。

14節で「落胆している者には
友からの友情を」とあります。
ヨブが求めていたのは、
責め立てることばではなく、友情。

それを彼は受けることが
できなかったのです。
だから彼はさらに落胆します。

けれど彼は全能者への恐れを
捨てることがありませんでした。

私たちはすぐに人を責めてしまいます。
苦しんでいる人をさらに苦しめてしまう。
では友情とは何でしょうか。
ヘブル語では「ヘセド」が遣われています。

欄外の注には「変わらない愛」とあるのです。
どんな状況でも、変わらず愛し、
味方をしてくれること。
ともに悲しみ、ともに嘆いてくれること。

私たちも、この変わらない愛を
神様からいただいています。
ですから落胆する友に、
友情を与えることができますように。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの変わらない愛を感謝し、

同じ愛で愛し合うことができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月8日

包み込み、癒やされる主[ヨブ記 5:1-27]

神は傷つけるが、その傷を包み、
 打ち砕くが、御手で
癒やして下さるからだ。
           ヨブ記 5:18

エリファズが神様について
語ることは間違っていません。
彼は神様のことをよく知り、
神様の愛とあわれみを信じているのです。

人が罪を犯すならば、
主はその報いを与えられます。
人を訓練されて、
成長を促されるのです。

申命記32章でも主は
「わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、また癒やす」と
語られています。

主だけが救い主であり、
すべての苦難から
贖い出して下さるのです。

でもこれが苦難の中にある
ヨブに慰めとなったでしょうか。
ただ知識だけを告げることが、
人を励ますでしょうか。

私たちの信仰、神様理解は、
知識だけにとどまっていないか、
そんなことを思わされたのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、今も生きて働いておられるあなたに

全き信頼を置いて歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月7日

人は神の前に[ヨブ記 4:1-21]

「人は神の前に正しく
 あり得ようか。
 その造り主の前に
 きよくあり得ようか。
           ヨブ記 4:17

ヨブのことばを受けて
彼の友だちの一人エリファズが
話し始めます。

エリファズはヨブが自分を正しいと
するところに嫌悪感を覚え、
ヨブを慰めるどころか、
さばき始めるのです。

敬虔さも、誠実さも、
自分勝手な思いではないかと。
正しい人が滅び、
苦しむわけがないと。

さらに人が神様の前に
正しくあり得るか。
造り主の前に
きよくあり得るか。

彼の語ることは、完全に
間違っているわけではないでしょう。
確かに私たちは神様の前に
正しくあり得ません。

けれどエリファズが語ることは、
神様の栄光、真実さを現わして
いないような気がします。

そして私自身が人に対して、
このようなことを語っていることに
気づかされるのです。

今日一日、どんなことを語るのが、
人の慰めとなり、主の真実さを
示すことになるのか、
思い巡らしていきたいと願います。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの真実さをあかしする口となりますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月6日

生まれた日を呪う[ヨブ記 3:1-26]

なぜ、苦悩する者に光が、
 心の痛んだ者にいのちが
与えられるのか。
           ヨブ記 3:20

ヨブは何があっても神さまを
呪うことがありませんでしたが、
自分の生まれた日をのろいます。

自分が生まれてこなかったら
良かったと語ります。
自分の死さえ願います。
でも「死はやって来ない」のです。

このことで彼の心は安らぎがなく、
休みもなく、憩いもなく、
心が乱れます。

なぜ苦しみにあうのか、
分からないとき、
私たちは混乱するのです。

私だったら色々、自分の
落ち度を探すかもしれません。
でもヨブはただ嘆き、
心の乱れた状態をオープンにするのです。

感情を押し殺さず、
自分を責めず、嘆く。
これは意外と難しいでしょう。

しかし私たちが素直に自分の感情を
明らかにするなら、
主は私たちの嘆きを
聞いてくださいます。

そして真実な主が私たちの
嘆きに応えてくださるのです。
それは”すぐに”ではなく、
神さまのタイミングで。

その時、主の安らぎを得
主のもとで憩うことができるでしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私の嘆き、苦しみを知ってください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】11月5日

幸いを受けるのだから[ヨブ記 2:1-13]

私たちは幸いを神から
 受けるのだから、わざわいも
受けるべきではないか。」
           ヨブ記 2:10

ヨブは財産、子どもたちを失います。
でも誠実で、罪を犯さなかった彼を
サタンはさらに苦しめようとするのです。

彼の身体を打つように
神さまに提案します。
そうすれば彼は神さまを
呪うに違いないと。

それに対して神さまは
またもサタンの手に
ヨブを委ねるのです。

ヨブはどうしたでしょうか。
それでも彼は神さまをのろわない。
彼の妻も「神さまをのろって死ね」と
言いますが、そうしない。

どうしてでしょうか。
それはすべてのことが神さまから
来ていると信じていたからです。

だから彼は唇によって
罪に陥ることはなかったのです。
このヨブの誠実さは、驚き。

私たちはどうでしょう。
ヨブのように誠実に
歩むことができるでしょうか。

難しい。主が幸いを
くださることだけを求め、
わざわいを受けたいとは、
決して思えないのです。

だから何か思わぬことがあると、
不平不満が口をついて出て来ます。
それが神さまとの関係を壊し、
心に平安がなくなる原因となるのです。

そうならないために、
主がしてくださったこと、
一つ一つを感謝して
歩んでいけた幸いです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、感謝の心を与えてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。