【日々のみことば】2月17日

どの地か[マルコ 4:13-25]

良い地に蒔かれたものとは、
 みことばを聞いて受け入れ、・・・
           マルコ 4:20

私たちの心は、どの地でしょうか?
道ばたとは、みことばを聞いても
全く心を留めない人の心の状態です。
また、聞きっぱなしの人のことでしょう。

そういう人たちは、
いくらみことばを聞いても、
受け入れようとはしません。

さらに蒔かれたみことばは、
サタンが来て、
そのみことばを忘れさせるのです。

岩地とは、みことばを聞いて
すぐに信じる人の心の状態です。
素直な信仰の人といえるでしょう。
素直な信仰はとても大切です。

しかしみことばをただ聞いて
表面的なことを受け入れるだけで、
みことばの深みを理解しようとしないのです。

ですから困難や迫害にあった時に
すぐにみことばを
捨ててしまうのです。

いばらの土地とは、
みことばとこの世の両方に
仕えようとしている人の心の状態です。

良い地とは、みことばを素直に受け入れ、
みことばを実行する人です。
この人はみことばを聞いても、
そのままにはせず、神様の意図を悟り、
御言葉に生きるのです。

そういう人は、30倍、60倍、
100倍の実を結ぶのです。
いつも自分がどのような
心の状態であるかを知り続けましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、素直な心でみことばを

受け入れることができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月16日

良い地に[マルコ 4:1-12]

また、別の種は良い地に落ちた。
 すると芽生え、育って実を結び、
三十倍、六十倍、百倍になった。
           マルコ 4:8

このたとえ話は3つの福音書に
記されています。
蒔いた種がそれぞれ4つの土地に
落ちて、どうなったかというたとえ。

道端に落ちた種は、烏が食べ
岩地に落ちた種は枯れてしまい、
茨の中に落ちた種は
実を結ばない。

そして良い地に落ちた種は
芽生え、育ち、実を結ぶ。
このたとえの意味は13節以降で
イエス様が明らかにしてくださいます。

イエス様はたとえで語られるのは、
神の国の奥義が与えられて
いない人がいるからだとするのです。

私たちが今、みことばを読んで
それを理解する知恵が
与えられているのは、
私たちに神の国の奥義が
与えられている証拠。

でもすぐに何でも分かる
わけではありません。
しっかりみことばに向き合い、
みことばが語ることを受けとめる。

聞きっぱなしにしないで、
みことばに生きようとする心、
それこそ神の国の奥義が
与えられている私たちの使命でしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、みことばを聞きっぱなしにせず、

みことばに生かしてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月15日

イエス様の家族[マルコ 3:20-35]

だれでも神のみこころを行う人、
 その人がわたしの兄弟、
姉妹、母なのです。
           マルコ 3:35

イエス様の言動をみて、
イエス様がおかしくなったと
人々が言うのを親族が聞き、
イエス様を連れ戻しにきます。

律法学者たちも、イエス様が
悪霊につかれていると
騒ぎ立てるのです。

それほどイエス様の働きは
インパクトが強く、
人々には驚きだったのでしょう。

そんな彼らにイエス様は、
ご自分がサタンではないと
はっきり告げられます。

サタンを縛り上げたので、
悪霊を追い出すことができると。

また31節以降をみると、
イエス様のお母さんマリアと
兄弟姉妹たちがイエス様に
会いに来ていることがわかります。

彼らもまたイエス様を説得し、
連れ戻そうとして
いたのかもしれません。

この時イエス様はどのように
思われたか書かれていませんが、
ご自分の働きが家族に理解されない
寂しさは少なからずあったでしょう。

と同時に、イエス様はご自分の家族は
今ご自分に従って来ている人、
そして神のみこころを行う人なのだと
語られるのです。

今、私たちはイエス様によって救われ
神の子とされ、神の家族とされています。
神の子、神の家族は、
神様のみこころを行う人たち。

今日も神の子とされた恵みを覚え、
神様のみこころを喜んで行い、
神様の素晴らしさを
ほめたたえていきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちをあなたのみこころを

行う者としてくださり、
 あなたの家族とされていることを
感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月14日

[マルコ 3:1-19]

安息日に律法にかなっているのは、
 善を行うことですか。・・・
いのちを救うことですか。
           マルコ 3:4

2章後半から、安息日のことで
パリサイ人たちがイエス様に
物申しています。

彼らは安息日に何もしないことを
良しとしていたのです。
ですから安息日に穂を摘んで食べたり、
人を癒やすことを禁止していました。

そんな彼らにイエス様は
「安息日に律法にかなっているのは、・・・」
と問いかけられるのです。

律法の中心は神様を愛し、
隣人を愛すること。
だから安息日に善を行い、
いのちを救うことは
律法にかなっている。

このことにパリサイ人たちは
気づかない。それは彼らの心が
頑なにされていたからです。

私たちも人をさばいて
しまうことがあります。
自分の正しさを押しつけて
しまうことがあるのです。

さばいたり、押しつけるのではなく、
主なる神様の愛に生きられるよう、
ともにお祈りしていきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたを愛し、

隣人を愛する者とさせてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月13日

罪人を招くために[マルコ 2:13-28]

わたしが来たのは、
 正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためです。
           マルコ 2:17

イエス様は収税所に
座っていたレビに
声をかけられ、
彼はイエス様に従います。

そしてレビはイエス様を招いて、
また取税人や罪人たちを招き、
食事をするのです。

それを見たパリサイ派の
律法学者たちは
イエス様の弟子たちに
文句を言います。

彼らは罪人たちと食事をするなんて
考えられなかったからです。
自分たちをきよく保つために
彼らを避けていました。

そんな彼らにイエス様は答えられます。
ここでパリサイ人を丈夫な人、
正しい人と思っておられたか。

丈夫、正しいと自認している
ということでしょう。
自分が病人で、罪人だと
気づいていない。

それが彼らの大きな問題でした。
逆に取税人たちは、
自分たちの罪を自覚していました。
だから彼らはイエス様のところに
行くことができたのです。

またイエス様は罪人たちを
避けるのではなく、
彼らの中に積極的に入られ、
彼らに近づかれました。

パリサイ人たちとは真逆。
私たちはどうでしょうか。
自分の救い、自分のきよさだけを
求めていないでしょうか。

主イエス様に倣い、
この世から遠く離れるのではなく、
この世の人たちをイエス様の
ところに招くために
どうしたら良いか
ともに考えていきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たち罪人を救うために、

イエス様が来てくださったことを感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月12日

彼らの信仰を見て[マルコ 2:1-12]

イエスは彼らの信仰を見て、
 中風の人に「子よ、あなたの
罪は赦された」と言われた。
           マルコ 2:5

イエス様がおられるところには
いつも人だかりができていました。
だからイエス様に近づくのも
一苦労でした。

そんな中、中風の人が
4人の友だちに担がれて
イエス様のところに
連れて来られます。

でも群衆のためにイエス様に
近づくことができない。
けれど彼らは諦めません。
屋根をはがすのです。

そして中風の人を寝かしたまま、
イエス様の近くにおろします。
このような彼らの信仰を見て
イエス様は言われます。

「子よ、あなたの罪は赦された」
イエス様は中風の人と
四人の友だちの信仰を見られた。
これはとても興味深いことです。

私たちはいつも一人で
信仰の歩みをして
いくのではありません。

一人で立てないときもあるのです。
そんなとき私たちは周りの
支えによって立ち、
イエス様に近づきます。

この信仰をイエス様は
見てくださり、
私たちを励まし、
癒やしてくださるのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちにともに信仰生活を歩む仲間を

与えてくださってありがとうございます。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月11日

わたしの心だ。きよくなれ[マルコ 1:35-45]

イエスは深くあわれみ、
 手を伸ばして彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」
 と言われた。
           マルコ 1:41

イエス様は一箇所にとどまって
人々が来るのを待って
おられるのではなく
歩き回られ、福音を伝えられます。

その途上、ツァラアトに
冒された人がイエス様の
もとにきて、懇願するのです。

彼はイエス様が自分を
癒やしたいと思ってくださるなら
かならず治ると信じています。

そんな彼の信仰をイエス様は
見られたのではなく、
イエス様は彼を深くあわれまれ、
彼にさわり、癒やしてくださるのです。

そして彼を厳しく戒めて
すぐに立ち去らせます。
イエス様が癒やしてくださった
ことを言い広めるなと。

その戒めを彼は守りません。
癒やされたことが嬉しくて
みんなに言ってしまうのです。

主のあわれみを受けても
主の命令を守ることが
できない人の弱さを覚えます。

私たちも主がいつも
あわれんでくださるのに
すぐに主の命令を破り、
自分勝手な歩みをしてしまうのです。

だからこそ主のみことばに
従い続けていけるように
祈り続けていく必要があるのでしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの喜ばれる歩みを

することができますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】2月10日

イエス様の癒やし[マルコ 1:21-34]

イエスは、様々な病気に
 かかっている多くの人を癒やされた。
             マルコ 1:34

イエス様の教えとみわざを見た
人々は大変、驚きます。
それはイエス様の権威、ことばの力を
目の当たりにしたからです。

またイエス様はシモンの姑を
癒やして下さるのです。
このような働きをなされた
イエス様の評判はすぐに広まります。

そして病人や悪霊につかれた人を
イエス様のところに連れて来るのです。
イエス様は彼らを癒やされ、
悪霊を追い出されます。

これらのことを通して、
イエス様は神の国が
来ていることを人々に
明らかにされたのです。

でも多くの人たちはただ驚いたり、
いやしてもらうだけで
イエス様のことを信じて
従うわけではありませんでした。

私たちはどうでしょうか?
イエス様に何を求めているでしょうか。
イエス様を信じ、イエス様に
従う者と変えていただきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、イエス様の力を信じ、

イエス様に信頼してついていけますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。