【日々のみことば】3月22日

皆に仕える者に[マタイ 23:1-12]

だれでも、自分を高くする者は低くされ、
 自分を低くする者は高くされます。
             マタイ 23:12

イエス様は群衆と弟子たちに
律法学者、パリサイ人たちを
まねるなと警告されます。

それは彼らが言うだけで
実行しないからです。
しかも人に重荷ばかり背負わせ、
自分たちは助けない。

また彼らの行いは
神様に対してではなく
人に見せるためであると。

人々からちやほやされて
持ち上げられることばかりを求め、
自分を自分で高めようとします。

そんな生き方ではなく、
皆に仕え、低くなるように
イエス様は教えられるのです。

やはり私も人の目が
気になることがあります。
立派な信仰者として見られたいという
誘惑はいつもあるのです。

人を自分よりもすぐれた者と思えず、
見下したり、おとしめたりします。
そんな愚かなものだからこそ、
イエス様の心を心とすることが大切。

イエス様が神としてのあり方を捨て、
人となって、十字架の死にまで
従われた、その謙遜さに見倣って
歩んでいくことができますように。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、イエス様にならって、

へりくだって歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月21日

一番重要な戒めは[マタイ 22:34-46]

この二つの戒めに律法と
 預言者の全体がかかっています。
            マタイ 22:40

律法の専門家がイエス様を
試そうと「律法の中で何が
一番重要か」と質問します。

それに対してイエス様は、
神様を愛することと、
隣人を愛することだと
答えられるのです。

この二つの戒めが
聖書の教えの中心だと言われます。
ルカの福音書では律法の専門家が
同じように答えていることが分かるのです。

でも彼らは頭では分かっていても
実行することができませんでした。
このことに彼らは全く気づかず、
自らの道を進み続けていました。

私たちも他人事とは思えないのです。
頭でっかちな信仰になることがあるからです。
そうならないために大切なことは、
イエス様を試すのではなく、
イエス様の声に聞くことでしょう。

今日も主の御声に耳を傾け、
神を愛し、隣人を愛することが
できるようにお祈りしましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、頭でっかちな信仰にならず、

生きた信仰とさせてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月20日

聖書も神の力も[マタイ 22:23-33]

「あなたがたは聖書も神の力も
 知らないので、思い違いをしています。
              マタイ 22:29

パリサイ人たちの後は、
サドカイ人たちがやって来ます。
彼らは復活を信じていませんでした。

彼らはレビラト婚を例にとって
復活の矛盾を指摘しようとするのです。
そんな彼らにイエス様は彼らの
思い違いを明らかにされます。

復活の時は、めとることも
嫁ぐこともないのです。
結婚という制度に縛られない、
自由がそこにあるのでしょう。

それだけでなくイエス様は
神様は死んだ者の神ではなく、
生きている者の神だと言われます。

私たちは死んで終わりではない。
一度死んでも、私たちは再び生きる者とされ
主とともに永遠に生きる者となるのです。

この素晴らしい恵みを覚えて、
生ける神様をほめたたえていきましょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちの歩みは死で

すべてが終わるのではなく、
 復活の希望があることを感謝します。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月18日

招かれる人は多いけど[マタイ 22:1-14]

招かれる人は多いが、
 選ばれる人は少ないのです。
            マタイ 22:14

王様の息子の披露宴に
招待されたら、だれでも喜んで
出席するような気がします。

でも、たとえの中で、
招かれた人たちは気にかけず、
自分たちのしたいことをし、
王のしもべを殺してしまう。

なぜなのでしょう。
それは彼らが王様を自分たちの
王として認めていないから。
王様に対して良い印象を持っていません。

父なる神様がイエス様を
遣わされた時も同じです。
多くの人がイエス様を神の子として迎えず、
イエス様を拒絶するのです。

そして神の国から、永遠のいのちから
一番遠いと思われていた人たちを
イエス様は捜して
彼らを招かれました。

けれどたとえの中にあるように、
そのように招かれた人たちの中にも、
悔い改めて生きようとしない人たちも
混ざっていたのです。

ここからただ主の招きに
応じることだけをイエス様が
求めておられないことが分かります。

そこに真の悔い改めがあり、
新しくキリストにあって造り変えられ、
生きようとする気があるのかが
いつも問われているのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、いつもキリストにあって

新しく造り変えてください。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月17日

石の上に[マタイ 21:33-46]

また、この石の上に落ちる人は
 粉々に砕かれ、この石が人の上に
落ちれば、その人を押しつぶします。
              マタイ 21:44

祭司長、パリサイ人がイエス様に
つまずき、殺そうとしたのは、
イエス様が彼らの願うような
救い主ではなかったからでしょう。

また彼らは自分たちの益のために
主なる神様を利用していたので
それをイエス様に指摘されたとき、
彼らの内に怒りが燃え上がったのです。

自己中心に生きるとき、
主なる神様がすべてにおいて
自分の願うように動いて
欲しいと思うとき、
私たちはつまずきます。

そのようにつまずいたとき、
そのままにしたり、
主から離れるのではなく
悔い改めることができますように。

そうすると私たちは
主につまずくのではなく
主の最善を求め、主を中心に
生きる者とされるでしょう。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたにつまずいたとき、

悔い改めて生きられますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月16日

父なる神様の願われること[マタイ 21:23-32]

「まことに、あなたがたに言います。
 取税人たちや遊女たちが、
 あなたがたより先に神の国に入ります。
              マタイ 21:31

心が頑ななユダヤ人指導者たちを見ると、
いつも自分はどうだろうかと問われます。
彼らはイエス様から痛いところを
突かれても、素直になれないのです。

それをただ避けて、向き合おうとしません。
兄息子のように口だけで、行いが伴わない。
一方、取税人や罪人たちは、ヨハネによって
明らかにされた義の道を信じます。

その様子を見ても、ユダヤ人の指導者たちは
思い直して信じることができないのです。
これは彼らの頑なさ、高慢さのゆえでしょう。

私も良いクリスチャンであるかのように
形だけ振る舞い、父なる神様の
願ったようにできていません。

いくら主がみわざを見せてくださっても、
思い直さず、自らの道を突っ走ってしまう。
そんな弱さ、愚かさがあります。

その自らの弱さ、愚かさに向き合うように
私たちを招いておられるのです。
自分の弱さ、愚かさを隠さず、
見てみないふりをしませんように。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、あなたの願われる歩みができますように

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。

【日々のみことば】3月15日

表面的な信仰[マタイ 21:12-22]

「『わたしの家は祈りの家と
 呼ばれる』と書いてある。
 それなのに、おまえたちは
 それを『強盗の巣』にしている。」
              マタイ 21:13

エルサレムに入城されたイエス様は
神殿に入ります。するとその中で
売り買いしている人たちを
追い出されるのです。

それは彼らが主の宮を
祈りの家ではなく、
自分たちの欲望のままに
使っていたからです。

見た目は立派な信仰で、
神様を敬っているかのように
ふるまっていましたが、
その実は違ったのです。

たくさんの葉が茂っているけれど
実を全くつけないいちじくの
木のように、彼らの行いも
全く実を結んでいませんでした。

私も見た目ばかり立派に振る舞い、
心が伴っていないことが
多くあります。

主に信頼し、主に祈ることを
主が求めておられるのに
それこそが私たちの歩みの中心なのに
主を求めず、身勝手な歩みをしてしまう。

そんな私たちだからこそ、
自分の心の中が強盗の巣になっていないか
祈りの家となっているかを
主に探っていただく必要があるのです。

主よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
 父なる神様、私たちが祈りの家として、

あなたの前に祈り、あなたに信頼して歩めますように。

*聖書箇所は「日々のみことば」
   (日々のみことば出版委員会)にもとづいています。