ツァラアトからのきよめ[レビ記 14:1-20]
それを、ツァラアトから
きよめられる者の上に七度かけ、
彼をきよいと宣言し、
さらにその生きている
小鳥を野に放す。
レビ記14:7
ツァラアトに冒された人が、
きよめられるために
何段階にも渡って
きよめの儀式があります。
それほどツァラアトから
きよめられることは
特別なことであり、
大きな恵みでした。
私たちは簡単に自分の罪は
イエス様によって赦されて、
今きよめられていると
告白しています。
でもそれがどれほど大きな
恵みであるかを忘れやすいのです。
だからこそ、ツァラアトからきよめられる
一つひとつの行いをしっかり受け止め、
感謝することができたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、私たちの罪からのきよめが
どれほど大きな恵みであるかを
覚えることができますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
汚れていると叫ぶ[レビ記 13:40-59]
彼は汚れているので、ひとりで住む。
宿営の外が彼の住まいとなる。
レビ記13:46
ツァラアトに冒された人は、
「汚れている、汚れている」と
叫ぶ必要がありました。
彼の汚れが他の人に移らないためです。
それから彼らはひとりで
住まなければならなかったのです。
宿営の外が彼らの住まいでした。
このようにツァラアトに
冒されることは、
精神的にも肉体的にも
キツかったのではないかと考えられます。
でも、これは共同体に汚れを
持ち込まないためでした。
主なる神様のきよさに
あずかった者たちとして
とても大切なことだったのです。
私たちもキリストのきよさに
あずかっています。
ですから自らの罪・汚れが
どれほど主なる神様を悲しませ、
汚すことであるかを
忘れないようにしたいと願います。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、私たちの罪・汚れがどれほど
あなたを悲しませるかを忘れませんように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
広がっているなら[レビ記 13:18-39]
もしも、それが皮膚に広がって
くるようなことがあるなら、
祭司はその人を汚れていると宣言する。
それは患部である。
レビ記12:22
ツァラアトであるかの判断は
患部が広がっているか、
そうではないかということです。
広がるということは、
病気が進行中であり、
汚れが広がっていく
ということでしょう。
私たちも罪をそのままに
しておくと、どんどん
私たちの内で広がっていきます。
そして汚れに満ちてしまうのです。
ですからいつでも自らの罪を
告白し、罪を捨てる必要があります。
今日も、私たちの心に罪が根を
はることがありませんように。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、私たちの心に罪が
広がることがないように、
罪を告白して歩めますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
聖書箇所:レビ記13章1-17節
タイトル:きよさとは何か
イズミンキッズはお休みです。
10時30分より ”主日礼拝” が持たれます。
*YouTubeでのライブ配信もします。
→ こちらよりご参加ください。
出産時の教え[レビ記 12:1-8]
祭司はこれを主の前に献げ、
彼女のために宥めを行い、
彼女はその出血の汚れから
きよくなる。
レビ記12:7
出産が汚れであるとは、
ショックを受けます。
出産は命がけで、
男性には決して
理解できない苦しみです。
一方で、生まれつき汚れの
中にある子どもの汚れを
その子ども自身が担うのではなく、
母親が担うところに
大きな意義があるのだと考えさせられたのです。
母親の犠牲の上に、まずきよめられ、
主イエス様の犠牲のゆえに、
すべての罪・汚れが赦される。
このように多くのとりなしと犠牲によって、
今、私たちは生かされているのですね。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、多くのとりなしと犠牲によって今、
生かされていることを心から感謝します。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
わたしが聖だから[レビ記 11:24-47]
あなたがたは聖なる者と
ならなければならない。
わたしが聖だからである。
レビ記11:45
死んだものに触れることによる
汚れに対する教えが記されています。
そして汚れときよさを
区別されるのです。
また44,45節で主なる神様は
「わたしが聖だから」
私たちが聖なる者と
ならなければならないと命じられます。
でも、どうでしょう。
私たちは主の聖に近づけるでしょうか。
主のように聖なる者となれるでしょうか。
自分自身を振り返ってみても、
難しいような気がします。
実際、主の全ききよさの前に
私たちが立つならば、
自らの汚れ、罪が明らかになり、
主よ、離れてくださいと
叫びたくなることでしょう。
けれど大切なことは、
私たちは今、キリストのゆえに、
主のきよさにあずかっている点です。
主はキリストにあって
私たちを汚れなき者として
見てくださるのです。
この恵みを今日一日
味わうことができたら幸いです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、今、キリストにあって
あなたのきよさにあずかれていることを感謝します。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
食べて良い動物とダメな動物[レビ記 11:1-23]
動物のうち、すべてひづめが分かれ、
完全にひづめが割れているもので、
反芻するもの。それは食べてもよい。
レビ記11:3
食べて良い動物と、
食べてはいけない動物が
主によって区別されています。
その理由は色々あると思うのです。
でも大切なことは、
主の前に聖であるか、
汚れているかを
いつも覚え続けることでしょう。
それをイスラエル人に教えるために
動物を聖なるものと汚れたものに
分けられたのです。
今の時代、私たちは何を食べても
良いとされています。
すべてはキリストにあって、
きよめられたからです。
だからといって何をしても
良いとはならないのです。
私たちに求められているのは、
自分に与えられた自由を
自分勝手に用いないこと。
いつでも主によって
きよめられたことを覚えて
主のきよさに近づくこと。
こうすることで
主はご自分のきよさを
私たちを通して、
現してくださるのです。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、あなたのきよさに
近づくものとさせてください。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
主の目に良しとされるか[レビ記 10:12-20]
今日、私が罪のきよめのささげ物を
食べていたら、そのことは主の目に
良しとされただろうか。
レビ記10:19
聖別されたアロンとその子らは、
最も聖なるものを、聖なるところで
食べるように命じられていました。
それが彼らの割り当てでした。
けれど彼らは、それらを食べず、
焼いてしまうのです。
それをモーセが怒って、
彼らを非難します。
これを受けてアロンは、
「それを食べたら、
主の目に良しとされただろうか」と
答えるのです。
アロンは自分の子たちの罪を覚え、
それらを食べませんでした。
これが彼らの悔い改めの
しるしだったのです。
主がどうせ赦してくださるから
ということでなく、
しっかり自分の罪を認め、
しっかり悔い改めることの
大切さを覚えます。
その心を主は良しとしてくださるのです。
今日一日、悔い改めるべき罪があるかないか、
自らの心を主に探っていただき、
しっかり悔い改めることができますように。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、しっかり自らと向き合い、
悔い改めて生きることができますように。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。
アロンの子らの罪[レビ記 10:1-11]
「わたしに近くある者たちによって、
わたしは自分が聖であることを示し、
民全体に向けてわたしは
自分の栄光を現す。」
レビ記10:3
アロンの子ナダブとアビフは
主の前に異なる火を
献げてしまいます。
それによって彼らは
主のさばきにあい、
主の前に死んでしまいます。
このようなアロンの子らに対する
主のさばきは、とても厳しく感じるのです。
どうして主なる神さまは
一度の失敗に対して、
さばきを下されたのでしょうか。
それはご自身が聖であることを
すべての人たちに示されるためでした。
主なる神さまは、常に
聖なるものと俗なるもの、
汚れたものときよいものを分けられるのです。
私たちも本来、汚れたものでした。
けれどイエス様の血によってきよめられ、
聖なるものとされたのです。
そして聖なる私たちをご自身のかたちに
変え続けてくださいます。
父よ、あなたに信頼します。あなたを愛します。
主なる神様、私たちを聖なるものと
してくださって、ありがとうございます。
*聖書箇所は「日々のみことば」
(日々のみことば出版委員会)にもとづいています。